ディジタル信号処理は,今日,様々な分野で利用されており,集積回路技術の発展状況をみれば,その重要性はますます増大するものと考えられる.信号処理のパラダイムは従来の固定的,集中的,線形的かつハード的な処理から,適応的,分散的,非線形的かつソフト的な処理に移行していることから考えると,本書が扱う「適応信号処理」は,離散フーリエ変換等の従来の基礎的な処理に加えて,将来の技術者が当然身につけるべきプラクティカルな処理であり,その体系的な考え方は非常に重要な工学的基礎理論と考えられる. 本書は,適応信号処理分野での世界的に著名な権威者として知られるMcMaster 大学のSimon Haykin 教授による「適応信号処理とその応用」に関する最も優れたこの分野での「バイブル」とされている決定版である.本書には適応信号処理のうち FIR に関連する事項が,基礎から応用まで述べられている.その分野がどの程度広がっているかは本書の序論に豊富な例を交えて説明されている:通信,制御,レーダー,ソナー,地震学,生化学・・・.本書はすでに,改訂第3版を発行するまでに至っており,この分野における最も優れたテキストと考えられている. 改訂第3版では,各章の記述が詳細になるだけでなく,従来の線形処理に加えて,非線形的な処理であるニューラルネットワークに関する記述が増えている.大学院で扱う様々なテーマに対応できるようにできる限り多くの処理が体系的に記述されている. 本書で扱うテーマである「適応フィルタ」は,統計的信号処理における重要な分野の一つを形成している.たとえその統計量が未知の環境で信号処理をしなければならない要求があったとしても,適応フィルタの適用はその問題に対する魅力的な解決手段となる.なぜなら,従来の方法で設計された固定フィルタよりも,通常,性能が相当改善されるからである.さらに,適応フィルタを適用すれば,それ以外の方法では不可能と思われる新しい信号処理能力を得ることができるので,適応フィルタは通信,制御,レーダー,ソナー,地震学,生体医学などの広範な分野に適用され成功を納めている. 本書の目的 本書の第1の目的は,有限長インパルス応答 (FIR)の線形適応フィルタを実現するための様々な方法について数学的理論を展開し,またその説明をできる限り統一的に扱うことである.線形適応フィルタの問題に対しては唯一の解というものはない.それどころか,それぞれが特有の長所を有する多種多様な繰り返しアルゴリズムが入っている“道具箱”があるだけである.本書はそのような道具一式を提示している. もう一つの本書の目的はニューラルネットワークの入門的取り扱いを提供することにある.ニューラルネットワークは困難な非線形適応フィルタ問題を解決するために非常に有力な強力な新技術である. 本書の構成 本書は入門的な章から始まっており,適応フィルタの動作,それらの実際の応用例が一般的な用語を用いて述べられている.また,充実した歴史を通してこの課題を何とか勉強したいと思う読者に刺激となるように,この章は歴史的ノートで終わっている.この章で導入された概念やアルゴリズムは本書の引き続く部分で詳細に説明されている. 本書の残り20章は以下のように4部構成となっている. 背景的な要素技術 第1章から第4章まで:このパートでは離散時間信号処理の基本,時間および周波数領域における離散時間確率過程の特徴付け,および固有値解析についてまとめている.ここで提供された背景的な要素技術は適応フィルタが一体どのようなものかということを深く理解するのに役立つはずである. 線形適応フィルタ 第5章から第7章まで:特に Wiener フィルタの基礎理論,線形予測, Kalman フィルタについて詳細に述べられている. Wiener フィルタと Kalman フィルタは,それぞれ異なる方法で,線形適応フィルタを定式化するためのフレームワークを提供している. 線形適応フィルタ 第8章から第17章まで:この3番目のパートは本書では最も大きなパートであるが,線形適応 FIR フィルタに関する2つの重要なファミリーを詳細に取り扱っている. 最小2乗平均(LMS)アルゴリズム 時間領域および周波数領域のものがそれぞれ第9章および第10章で取り扱われている.第8章では,まず最急降下法と Wiener フィルタとの関係が明らかにされ,さらに標準的な LMS アルゴリズムが導出されている. 再帰形最小2乗(RLS)アルゴリズム この定式化は Kalman フィルタリングの枠組の中で「統一的」な形で述べられている.特に,RLS アルゴリズムの標準形,平方根形,および次数再帰形が,それぞれ,第13章,第14章,第15章に述べられている.その他の関係する事項,すなわち,ブロック最小2乗フィルリング,およびユニタリ回転と反射が,それぞれ,第11章,第12章で取り扱われている.このパートの終わりの部分では,第16章で有限精度の影響,第17章で線形時変システムの追従性が扱われている. 非線形適応フィルタ 第18章から第20章まで:特に第18章は,ブラインドデコンボリューションの問題が,非線形な修正を加えることによってどのように解決されるかを考察している.またサイクロステーショナリの性質をブラインド等化の問題を解くにあたってどのように利用するかということもここで述べられている. 残りの2つの章は多層フィードフォワードニューラルネットワークに費やされている.第19章では多層パーセプトロン (MLP) の後方伝搬アルゴリズムによる演習,第20章ではラジアルベース関数 (RBF) によるネットワークが論じられている. 補助的資料 全部で10のいろいろなトピックに関する付録を設け,本書の理解を助けるようになっている. 「用語解説」が収められている.定義,記号および慣用法に関するリスト,および本書で用いられた略語,主要シンボルのリストから構成されている. 本書で参考にした出版物はすべて文献表に列挙されている.本文中では各参考文献を著者名と年号で区別し文献表で確認できるようになっている. 計算機実験 本書には多くの計算機による実験が含まれている.これらは,LMS や RLS アルゴリズムの基礎的な理論と応用を例示するために開発された.これらの実験は線形適応フィルタアルゴリズムに関するこれら2つのファミリの性能を比較検討するのに役立つはずである. 読者が,計算機実験の結果を検証し,さらにそれをベースにして適当と思われる拡張を行うことを勧めたい. 演習問題 序論を除いた各章の終わりには問題を与えられている.これらは次の点をねらって作成されたものである. その章の内容に関する読者の理解がより深まるようにすること. その章で考察されている理論のさらに拡張した側面に読者が挑戦できるようにすること. 著者の Simon Haykin 教授には本書の他にも,アダプティブアレー,ブラインドデコンボリューション,ニューラルネットワーク,通信に関するものがあり,またIEEE論文誌におけるアダプティブアレーの特集号の編集委員をされるなど,この分野で非常にアクティブに活躍している.このような広い視野に立って研究を行っているからこそ,本書のように必要不可欠な基礎をしっかりと体系的にまとめる必要性を感じ,本書を著したと推測できる. 通信の分野では,通常,信号を複素数で表しているが,多くの一般的な適応信号処理の著書が実数信号しか扱っていないのに対して,本書は全体が複素数で書かれており,著者の豊富な経験が活かされている.また,翻訳者は東京工業大学の教授陣であり主に移動通信の分野で活躍している研究者である。したがって適応信号処理を実用的に利用することをいつも念頭におき,その重要性を痛感して膨大な頁数の本書の翻訳を行った.特に移動通信の分野は今後膨大なユーザの利便性に対する要求に応えて様々な適応信号処理が利用される分野であると考えられ,本書は移動通信に関わるエンジニアにとって最も重要な必携書となっている. |